思想・宗教

2008年2月11日 (月)

現実には幸福も不幸も関係ない

「幸福」不自由や不満もなく、心が満ち足りていること。

「不幸」幸福でないこと。恵まれていないこと。

上記どちらの言葉も、個人の主観を表すもの。現実には、個人など一人いなくなっても世界は回る。不幸論などと言って幸福論に嫌悪感を示すものもいるが、しょせん個人のたわごと。現実は、その個人にとって何が足りないか、満ち足りているかではなく、社会が必要としている歯車の中で何を担うかという程度の問題。

現実に生きれば、楽しいこともあり、苦しいこともあるだろう。自己満足が幸福であり、常に先を求めることが不幸なのか?

自己完結したら終わり。現実は変化し続ける。客観的にものごとを見ようとせず、主観的に見るから「幸福」だとか「不幸」だとかにこだわり、惑わされるのではないだろうか?

自分がどちらか考えるのは勝手だけど、幸福論も不幸論も、現実には不要だ。現実を理解する力、それを身につけることを考えたほうがいいと思う。こんな言葉は、もう不要だ。時間の無駄だ。と思っているのは私の勝手な考えで、こうやって誰かが見るようなところに書く必要もないのだけど。

2007年9月 7日 (金)

イエスのLOVEは愛にあらず

今、「イエスの生涯」(遠藤周作著)を読んでいる。彼のいうところのLOVEは日本語で「愛」と訳されているが、ここがそもそも私は違う概念である。

釈尊のいう「慈しみ」こそイエスのいう「LOVE」だと私は思うのだけど、英語にしてしまうと、これも「LOVE」になる。日本人の感覚とは違うと思う。私だけかもしれないが、私は「愛」というと恋を連想するし、広い概念でも親子の愛情ぐらいで敵に対する愛というのは理解できなかった。しかし、この本を読んでわかったというか、自分なりに理解したところなのだが、愛ではなく「慈しみ」なのである。こう言い換えると敵を慈しむことは私もできると思う。

「愛」と訳されると、私なんかはどうしても狭い概念にとらわれてイメージが広がらない。もともとキリスト教だった人なんかは違うんだろうな。私が、もつキリスト教のイメージは、この本を読むまで、幼稚園の聖劇だったから。イエスは生まれながらにして神だったのではないということを踏まえると、彼の言葉はとても心に染み渡る。もっとうまく翻訳すれば理解が広がるのだろうが、私のやるところではないし、誰かやってくれないかなと思う。というか、キリスト教の本質は、こういうところを見ないと見えてこないので、この本に出会ってよかった。

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